hodakaの居場所Xoops実験室

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発行日時
2017/3/27 6:00
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97番 百人一首の産みの親 藤原定家 来ぬ人を
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記事詳細

さて、いよいよ百人一首の産みの親(&源氏物語の育ての親)定家卿のお出ましであります。この談話室、百人一首を1番から人物像を中心に語り合って来たわけですが、それはとりもなおさず撰者の定家について論議してきたとも言えましょう。談話室の検索欄に「定家」と入れて検索すると殆ど全ての歌が検索されて出てきます。そんな定家卿です。改めて敬意を込めて考えてみましょう。

【参照】百人一首 談話室 ウオームアップ
「百人一首の成立、いつ誰がどのように選んだのか」2015.3.5
「撰者、藤原定家について」2015.3.9

97.来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ

訳詩:     来ぬ人をまつ身の焦がれ 松帆の浦の
        そよりともせぬ凪のくるしみ
        じりじりと海士の焼くのは藻塩だろうか
        焼けるのは いえ わたしの身です
        来ぬ人をまつ身は焼けて焦がれよじれて

作者:権中納言定家 藤原定家 1162-1241 80才 俊成の男 正二位権中納言
出典:新勅撰集 恋三849
詞書:「建保六年内裏の歌合の恋の歌」 1216歌合

①藤原定家 
 定家に関る年表、談話室ウオームアップ(2015.3.9)記載のものを増補しました。
 (@は定家の数え年令)
 1156 保元の乱
 1159 平治の乱
 1162 @1 定家誕生(父俊成49才の子)
 1167 @6 平清盛太政大臣に(平氏政権成立)
 1180 @19 以仁王挙兵→敗死 後鳥羽院誕生
       定家明月記を書き始める この頃から作歌活動本格化
      「紅旗征戎は吾が事にあらず」 
 1185 @24 平氏滅亡(壇の浦)源雅行と殿上で争い除籍さる
 1186 @25 定家九条家に出仕 西行の勧めで二見浦百首を詠む
 1188 @27 千載和歌集(俊成撰)
 1192 @31 頼朝征夷大将軍(鎌倉幕府成立)
 1196 @35 源通親の政変 九条兼実失脚 九条家ピンチ 定家も不遇時代
 1200 @39 この頃から後鳥羽院和歌に傾注、定家、院御百首作者に加えらる
 1201 @40 後鳥羽院の熊野御幸に供奉
 1202 @41 源通親死去、以降後鳥羽院専制政治開始、やりたい放題
       この頃後鳥羽院と蜜月状態。何度も水無瀬御幸に供奉
 1205 @44 新古今和歌集(定家・家隆・有家・雅経)
       →後鳥羽院が煩く取捨選択し実際は後鳥羽院撰
 1207 @46 名所絵歌で定家の歌が採用されず後鳥羽院と衝突
 1211 @51 やっと従三位に昇任。その後もずっと官位アップに執心
 1220 @59 定家、後鳥羽院と対立 勅勘を受く
 1221 @60 承久の変 後鳥羽院、隠岐に配流
 1233 @72 定家出家(法名:明静)晩年は源氏物語など古典に傾注
 1235 @74 百人一首(小倉山荘 障子絵+色紙形)
 1239 @78 後鳥羽院崩御
 1241 @80 定家死す

 以下アラカルト風に気づいた点を書いてみます。

〇定家の健康状態
 幼少時赤斑瘡やら疱瘡で死にかける。以後も病弱体質。病気のデパートだったよう。
 →でも80才まで生きたら長寿と言えるでしょう。

〇定家の性格、行状
 頑固で強情、粘着質で激情家
 24才、宮中で同僚源雅行に狼藉事件、除籍される。父俊成が修復に奔走
 →これだけ見ると好きになれないが、まあ色々あったのでしょう。

〇後鳥羽院との蜜月~確執
 1200-1205 院が和歌に集中した時代。定家も重んじられ蜜月関係。
       熊野御幸やら水無瀬御幸やらに供奉 お気に入りの歌人であった。
 1205    新古今集完成 この頃から院は和歌への興味を失っていく。
       次第に定家との溝ができてくる。
 1220    お召の歌会に定家は欠席、歌を贈るがその歌に後鳥羽院激怒、勅勘

 →気まぐれ和歌愛好家の後鳥羽院と和歌の求道者定家。合うはずがない。
 →定家はあまりぶれておらず、後鳥羽院の気まぐれには手を焼いた感じ。
 →道中ドンチャン騒ぎの熊野御幸にはほとほと参った模様。

〇定家の結婚 
 20才過ぎ歌道のライバル六条家藤原季能の娘と結婚 二男二女を生む
 その後この妻とは離別(理由不明)、1194頃96藤原公経の姉を後妻に迎える。
 →96番歌でも書いたがこの結婚は大きかった。
 →でもこの時点で公経が後に朝廷の第一人者になるとは予想できなかったろう。

〇定家の官位アップへの執心
 出世欲旺盛、常に不満を抱き訴え続ける。
 1211従三位@51、1216正三位@56、1227正二位@67、1232権大納言@72
 →承久の乱後公経が朝廷の一人者になって引き上げられた。
 →やっぱりそんなに官位って欲しいものなんだ!

〇定家以降の御子左家
 息子為家(公経の猶子)が継ぎその子どもの代で二条・京極・冷泉の三家に分裂
 →ライバル六条藤家が南北朝代に断絶するに対し御子左家(冷泉家)は存続していく。

②歌人としての定家(もう今までに語り尽くされてますが)
・新古今集撰進者の一人 新勅撰集(1235年 1374首 後堀河帝勅)の撰者

・勅撰集入集 465首 私撰集に秀歌撰・定家八代抄 私家集に拾遺愚草
 歌論書に毎月抄他、 18才~74才に亘り日記「明月記」を執筆

・晩年(主として出家後か)は源氏物語他古典の書写、編纂、注釈(古典考証)
 →「膨大な書写、独特な書体」として有名。くせのある書体だったようだ。

・定家の歌から
 1207最勝四天王院の名所障子歌に自信作を取られず院の眼力をそしる
  秋とだに吹きあへぬ風に色変る生田の森の露の下草

 1220歌合欠席時院に差し出した歌。後鳥羽院激怒 勅勘・閉門
  道のべの野原の柳したもえぬあはれなげきのけぶりくらべや

 有名歌を少し
  見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮
  春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空
  駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮

 小倉山荘での歌
  露霜の小倉の山に家居して干さでも袖の朽ちぬべきかな
  忍ばれんものともなしに小倉山軒端の松ぞ馴れて久しき

・定家の近代秀歌より
 「ことばは古きを慕ひ、心は新しきをもとめ、及ばぬ高き姿を願ひて寛平以往の歌に習はば、おのづからよろしきこともなどか侍らざらむ
 →新古今調ということか。

・後鳥羽院の定家評(後鳥羽院口伝)
 「惣じて彼卿が歌のすがた、殊勝のものなれども、人のまねぶべき風情にはあらず。心ある様なるをば庶幾せず、ただ言葉すがたの、えんにやさしきを本体とせる間、その骨すぐれざらん初心の者まねばゝ、正体なき事になりぬべし」
 →歌評というより定家の人柄・行動、定家そのものへの嫌悪。ちょっと大人気ない。

③97番歌 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
・建保(六年じゃなく)四年の順徳帝主催の歌合 定家55才 自讃歌
 対戦相手は順徳帝 よる浪もをよばぬ浦の玉松のねにあらはれぬ色ぞつれなき
 →順徳帝の歌を合わせられ勝ちとなっている。順徳帝が勝ちを譲ったとも。

・本歌 万葉集 笠金村の長歌
  なきすみの 舩瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ、、、、

 【藻塩】(広辞苑)
  海草に潮水を注ぎかけて塩分を多く含ませ、これを焼いて水に溶かし、その上澄みを釜で煮つめて製した潮。万葉集(6)「夕なぎにー焼きつつ」

・男の訪れを待つ切ない女心を詠んだ歌
 じりじりと焼け焦げる藻塩 焼き焦がれ 身も焦がれ
 松と待つ
 →くっつき過ぎ、常套過ぎる感じもするがどうだろう。

・総じてこの歌の評価は高い
 「定家のすべてがこの一首に圧縮されているといっても過言ではない」(白洲正子)

・松帆の浦 淡路島の北端 島の始めの淡路島 対岸は須磨・明石

④源氏物語との関連
 源氏物語須磨 源氏と女人たちの歌の贈答 みな「藻塩たれつつ」を踏まえている。

 須磨の家居の様子
  おはすべき所は、行平の中納言の藻塩たれつつわびける家居近きわあたりなりけり。

 源氏→藤壷 松島のあまの苫屋もいかならむ須磨の浦人しほたるるころ
 藤壷返し しほたるることをやくにて松島に年ふるあまも歎きをぞつむ

 源氏→朧月夜 こりずまの浦のみるめのゆかしきを塩焼くあまやいかが思はん
 朧月夜返し 浦にたくあまだにつつむ恋なればくゆる煙よ行く方ぞなき

 紫の上返し 浦人のしほくむ袖にくらべみよ波路へだつる夜の衣を
 六条御息所返し うきめ刈る伊勢をの海人を思ひやれもしほたるてふ須磨の浦にて

 →97番歌は須磨・明石からの源氏の帰りを待つ女君たちの心を定家が代弁したものではないでしょうか。

松風有情さんの百人一首絵、97番藤原定家、画き納めだろうとのこと。
よく画けてます。一段と進歩されたこと間違いないでしょう。ありがとうございました。

百人一首絵 97番 藤原定家 by 松風有情

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