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発行日時
2017/4/10 6:00
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99番 承久の乱で隠岐へ 後鳥羽院 人もをし人もうらめし
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さてラス前、当然大物の登場です。天智・持統帝から始まった天皇&藤原氏による治世も承久の乱を以て終りをつげ、武家筆頭による政権へと移行する(中世の始まり)。その立役者が後鳥羽院。「和歌を通じて日本の文化的統合を狙った意欲的な上皇」(五味文彦)でもありました。大物ぶりを拝見しましょう。

99.人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は

訳詩:     詮のないことだが世を思う
        世を思えば物を思う
        いとしい者がいる 憎い者がいる
        つまらない世に
        なおこの愛と憎しみのある心のふしぎ

作者:後鳥羽院 1180-1239 60才 第八二代天皇 高倉天皇の第四皇子
出典:続後撰集 雑中1202
詞書:「題しらず」

①後鳥羽院 父高倉帝(祖父後白河帝) 母藤原信隆の娘殖子
・安徳帝が西国へと落ち、後白河院は次帝に高倉帝の皇子たちの中から後鳥羽帝を指名
 この経緯が平家物語巻八山門御幸に見られる(多分に後付けのフィクションだろうが)
 *後白河院が三宮、四宮を呼び声をかけたところ、三宮はむずかって院の所へ行かず、四宮は機嫌よく院の膝に乗ったので四宮(後鳥羽帝)を次帝とした*
 →こういうことで歴史が作られていく。
 →後鳥羽院という個性的な人物が指名されてなかったら日本史も変わっていたろう。 
   
・後鳥羽院関連年譜
1180@1 後鳥羽帝誕生 安徳帝即位(@3) 以仁王挙兵
1181@2 平清盛死去
1183@4 木曾義仲京へ侵攻、平家安徳帝を擁し西国へ 後鳥羽帝即位(@4)(神器なし)
   ~1185まで安徳帝・後鳥羽帝、二帝並立状態
1185@6 壇ノ浦平家滅亡、安徳帝死去  宝剣失くなる
1192@12 後白河院死去(院政終わる) 頼朝征夷大将軍に
   ~1196 九条兼実が摂政・関白
1196@17 源通親の政変(以後1202死するまで朝廷を主導)
1198@19 土御門帝(@4)(外祖父は源通親)に譲位
1201@22 和歌所設置、熊野御幸に定家供奉
     この頃和歌に没頭(未曾有の千五百番歌合)
1202@23 源通親死去、ここから後鳥羽院の専制が始まる
1205@26 定家ら新古今集撰進
     和歌の熱冷めて他諸事に傾注
1210@31 土御門帝に替えて順徳帝@4を立てる
1221@42 承久の乱 隠岐に配流
1239@60 隠岐で崩御 

 以下97番定家の時同様アラカルト風に感じたことをピックアップします。

〇三種の神器なき即位
 神器は安徳帝が持っていった。安徳帝死後(@壇ノ浦)鏡と玉は戻ったが宝剣は見つからず。
 →長じるにつれ即位の経緯を知るにつれ「自分は今までの天皇とはちょっと違う、何か欠けているところがある」とコンプレックスを感じたのではないか。
 →以後のいささか常軌を逸した行動もその裏返しかも。

〇1198 19才で土御門帝に譲位(自らの意志で)してから和歌に没頭するようになる。
 俊成に師事。数々の歌合を主催。後鳥羽院歌壇を形成する。
 千五百番歌合(当代主要歌人30人X100首)何年もかけて勝負をつける。
 →ちょっと度を越している。専制君主でなくばできまい。

〇新古今集撰進が終わった1205ころから和歌への情熱は徐々に冷め他の遊びに方向転換。
 後鳥羽院の多彩な遊び(水無瀬離宮を中心にして)
 音楽 琵琶、笛、笙
 スポーツ 相撲、水練、蹴鞠、競馬、闘鶏、犬追物、笠懸
 歌の会、詩の会、連歌会
 今様、猿楽、白拍子の舞
 囲碁、双六
 →これだけ幅広く遊べるとはすごい。
 →正に「飲む・打つ・買う」男冥利に尽きるお人ではなかろうか。

〇吉野御幸三十回以上、水無瀬離宮(豪壮無比の避暑別荘)往訪数知れず。
 吉野御幸、毎度一ヶ月以上かかる。毎夜毎夜の和歌会、大酒宴
 →やりたい放題。世の人心は離れていったのではないか。

〇1210頃からか鎌倉幕府への不満が募ってくる。荘園経営やら相続を巡り幕府側と対立、幕府も力で押さえつけ譲らない。段々と肩身の狭い思いが昂じてくる。1219実朝暗殺さる。
 →鎌倉幕府への実力行使に傾く(「このまま許しておくわけにはいかない」)。

〇1221 承久の乱
 執権北条義時追討の院宣を出し挙兵するも召集に応じた兵力は少数で幕府大軍(19万騎とも)になすすべなく完敗。即刻後鳥羽院は隠岐へ、息子順徳院は佐渡へと配流。土御門院も自ら土佐へと落ちる。
 院宣を発すれば幕府は降参すると思ったのか。大軍が朝廷側に馳せ参じると思ったのか。
 →計算違い。甘い。

 まさか即刻隠岐に流されるとは思わなかったのか。
 →崇徳院の例があるではないか。愚管抄を侮ったのが墓穴を掘った要因か。

 結果的に承久の乱のお陰で今まで京・鎌倉の二重政権だったのが鎌倉幕府専権政治体制(天皇の人事も含め)へと固まった。日本史にとって大きな出来事であったことは間違いなかろう。

〇隠岐での後鳥羽院
 配流後ほとぼりの覚めた頃を見計らって朝廷公家側から鎌倉幕府へ還京の嘆願がなされたが鎌倉(北条泰時)は聞く耳持たず。

 結局隠岐で19年を過し、1239 60才で崩御。
 (佐渡の順徳院は3年後1242 自ら食を断って崩御)
 →これはあまりに酷すぎるだろう。源頼朝直系の源氏政府であればそこまで朝廷をないがしろにすることはあり得ない。北条氏、所詮は坂東の田舎者である。

②歌人としての後鳥羽院
・凝り性で若い時に集中し短期間で和歌を極めたようだ。
 1198譲位後~1205くらいがピークか。
 千五百番歌合、新古今集の編纂
 →新古今集は定家らに撰進させたが実際には後鳥羽院が何度も取捨選択し後鳥羽院親撰と言われる。

・新古今集以下勅撰集に256首 御集「後鳥羽院御集」 歌論書「後鳥羽院口伝」

・後鳥羽院秀歌 田辺聖子撰
 ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく
 見わたせば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ
 み吉野の高嶺の桜散りにけり嵐も白き春のあけぼの
 寂しさは深山の秋の朝ぐもり霧にしをるる槙のした露
 奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせむ

・隠岐での後鳥羽院
 隠岐では多芸な遊びもできない。再び和歌に情熱を注ぐ。
 遠島御百首、時代不同歌合、後鳥羽院口伝も隠岐で書かれた。
 
  われこそは新島守よおきの海の荒き波風心して吹け

 承久の乱後97定家は後鳥羽院との音信を断ったが98家隆は文通を続けた。
 (家隆は隠岐へ慰問に訪れたとも、、、出来過ぎた話であろうが)

③99番歌 人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
・出典は続後撰集 1251 藤原為家撰 百人一首よりずっと後
 →定家の意図を受けて為家が後撰集に入れ、百人一首にも入れたのか。

・1212 五人百首中の述懐歌
 同時に詠まれた後鳥羽院の述懐歌
  いかにせむ三十あまりの初霜をうち払ふ程になりにけるかな
  憂き世厭ふ思ひは年ぞ積りぬる富士の煙の夕暮の空

  →まだ討幕の意図はない頃。述懐というより鬱憤の歌か。

・人もをし人もうらめし
 世の中には愛しい(自分サイドの)人もおれば恨めしい(思う通りならない)人もいる。
 →同一人説もあるようだが愛しい人、憎い人とする方が率直ではないか。

・丸谷才一は古注(「百首要解」江戸の国学者岡本況斎)に基き99番歌は源氏物語須磨に書かれた光源氏の気持ちを背景にしていると説く。

 源氏物語 須磨8
  、、、世ゆすりて惜しみきこえ、下には朝廷を謗り恨みたてまつれど、身を棄ててとぶらひ参らむにも、何のかひかはと思ふにや、かかるをりは、人わろく、恨めしき人多く、世の中あぢきなきものかなとのみ、よろづにつけて思す。

 須磨に落ちる源氏、東宮に別れを言いに行く場面。
 今まで源氏に言い寄って来てた人も須磨に落ちると聞くと離れていく者もいる(源氏命でずっとついてくる者もいるが)。世の中薄情なものだなあという述懐。
 
 →後鳥羽院は源氏物語を読んでいたか?
 →水無瀬離宮の豪華絢爛遊びの様は六条院の華やかさに倣ったのではなかろうか。

長くてとりとめなくなってしまいスミマセン。
白河院・後白河院・後鳥羽院の三人は性格も行動も個性的で一口には語れない歴史上の大人物だと感じています。

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