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発行日時
2017/4/17 6:00
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100番 締めは順徳院 「百々しきや」
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さて2015.4.2天智帝の1番歌から始まった百人一首「談話室」、丁度2年を経て100番歌に到達です。大トリは後鳥羽院の子で承久の乱で後鳥羽院に連座して佐渡の地で果てた順徳院。高らかにフィナーレを飾っていただきましょう。

  智ではじめ徳でおさめる小倉山(江戸川柳)

100.ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり

訳詩:     大宮の古い軒端は荒れはてて
        わがもの顔のしのぶ草よ
        ああ しのぶともしのびつくせぬ
        昔日の大宮の威儀 その栄華
        いまはただ 古い軒端にしのぶ草が

作者:順徳院 1197-1242 46才 第八四代天皇 後鳥羽天皇の第三皇子
出典:続後撰集 雑下1205
詞書:「題しらず」

①順徳院 1197-1242 46才
・1197生まれ。完全に鎌倉時代生まれ、百人一首中の最年少。
(次に若いのは93源実朝 1192(イイクニ)生まれ)
(百人一首撰定時1235存命だったのは96公経、97定家、98家隆、99後鳥羽院、100順徳院の5人。順徳院が最年少)

 →公武合体路線が採られておれば違った日本史を作りあげていた人物かも。
 (所詮タラレバの世界であるが)

・後鳥羽院の第三皇子 母は藤原範季の娘重子 母の母は平教子(清盛の姪)
 →平家の血が流れている。反幕府(源氏)に流れるのも宜なるかな。

・後鳥羽院は先ず土御門帝(源通親の娘腹)に譲位したが源通親が亡くなると取分け可愛がっていた第三皇子を順徳帝@14として帝位につけた1210。
 →後鳥羽院が討幕の心持に傾いていった頃。
 →順徳帝は父に似た活発・勇武の気性で後鳥羽院の相棒として討幕計画に同調していく。

・91九条良経の娘立子を中宮とし息子懐成親王(仲恭天皇)を儲ける。
 →承久の乱勃発にあたり仲恭天皇に譲位するも乱後廃位となり一旦後鳥羽院系は途切れる。
 →後堀河・四条帝を経て八十八代後嵯峨帝(土御門帝の子)から後鳥羽帝系に戻る。
 
・1210~1221 帝位にはあったが政治は専ら後鳥羽院による院政、順徳帝の出る幕なし。
 詩歌・管弦など風雅の道に傾注(和歌は定家に師事)
 宮中の有職故実を研究し禁秘抄(古典的名著の誉高い)を著す。
 →成り上がりの鎌倉幕府に朝廷の威厳を示す意図もあったか。
 →北条にしたら「フン、それがどうした」って感じだったのかも知れぬが。
 →聡明闊達な勉強家。帝位を全うし公武合体新日本を十分リードしていけたのでは。

・1221 承久の乱 上皇側はなすすべなく幕府軍に敗れる
 後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡島へ配流となる。

 【佐渡島】
  周囲263km 面積東京都の約半分 日本の島としては沖縄本島に次ぐ大きさ
  人口58千人 最大都市佐渡市(西側中央部)
  既に8世紀以前に佐渡国として日本国の領地下となっている。
  流された人 順徳天皇・日蓮・日野資朝・世阿弥
  →京都の文化が入り込んでいる。取分け能が有名
  関ヶ原後、佐渡金山が発見され幕府天領となる。

 順徳院は真野(佐渡市)黒木御所で21年を過し1242 46才で亡くなる。
 1239隠岐で後鳥羽院崩御、これで希望をなくした順徳院は自ら食を断って死亡
 →何とも哀れである。鎌倉幕府には心ある人物がいなかったという他ない。

②歌人としての順徳院
・幼少時から定家に師事 息子為家も近習 熱心に歌の道を進む。
 帝位について宮中で数々の歌合を主催

・続後撰集(為家撰)以下勅撰集に159首
 私家集に順徳院御集(紫禁和歌草)歌論書に八雲御抄 日記に順徳院御記

・佐渡に配流された時の歌
  ながらへてたとへば末に帰るとも憂きはこの世の都なりけり
  厭ふともながらへて経る世の中の憂きにはいかで春を待つべき

  →我慢して恭順の意を示しておれば還京できると思っていたろう。

・佐渡でも歌作に励み定家とは音信を続け(定家も応じた)ている。
 百首歌(順徳院御百首)を定家に送り定家はこれに評価を加えている。
 八雲御抄も佐渡で書き続け完成本を定家に贈っている。
 →歌作、和歌の研究が慰みであった。

 八雲御抄
 歌論として古風を尊び自然体での歌をよしとしている。

・後鳥羽帝が亡くなった時1239の弔歌
  君もげにこれぞ限りの形見とはしらでや千代のあとをとめけむ
  →希望が絶望に変った。お可哀そうである。

③100番歌 ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
・1216 20才の時の歌 後鳥羽院が討幕へと傾く政情不穏の折の歌である。

・ももしき(百磯城)=多くの石で築いた城、転じて宮中

・しのぶ 忍ぶ草(ウラシダ) ジメジメした日陰に茂る雑草
 →荒廃した建物に生える象徴的植物
 →蓬・葎は日向、浅茅は沼地 何れも荒廃を表すやっかいな雑草

・聖代を偲び王道の衰微を慨嘆する歌
 聖代とは延喜・天暦(醍醐・村上朝)か天智・持統朝か
 →百人一首の始めと終りを考えれば天智・持統朝でよかろう。

 1番(秋の田の)・2番(春過ぎて) 希望に満ちたニッポン
 99番(人もをし)・100番(ももしきや) 王道の廃れゆくニッポン
 →王道とは天皇を頂点にいただき臣下(藤原氏)が支える構図である。

・百人一首の締め括りに百の数字が入っているのは分かり易くていいのではないかとも思うが、それにしても100番歌はあまりにも侘しい。
 →定家は後鳥羽院・順徳院の気持を率直に伝えるべく歌を撰んだのであろう。

④源氏物語との関連
・源氏物語は延喜・天暦の聖代を描いた物語とされている。
 現世を嘆く順徳院にも源氏物語は眩しく映っていたのではないか。

・荒れ屋敷の象徴として忍ぶ草は定番
 1源氏が夕顔を連れ込んだなにがしの院(夕顔11) 
  なにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し。 

2源氏が須磨に去って荒れた花散里邸、この歌を見て源氏は修繕を手配する。
  荒れまさる軒のしのぶをながめつつしげくも露のかかる袖かな(須磨13)

3源氏が何年も訪れず荒廃した末摘花邸で古今集の歌が引かれている。
  君しのぶ草にやつるる故里はまつ虫の音ぞかなしかりける(読人しらず)
  →「忍ぶ草の生い茂る荒廃の邸をいうとともに、源氏も末摘花も互いにしのびあう気持ちでいることをいう」(脚注)

フィナーレと言うにはあまりにも侘しい終わり方であるが当時の現実であり致し方あるまい。それにしても大化の改新(天智・持統帝)に始まり600年を経て承久の乱(後鳥羽院・順徳院)で終わる百人一首、これ以上の歴史教材はないのではないか。

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これで100番までの投稿を終わります。長らくのご支援ありがとうございました。後は完読記念旅行に向けて余韻を楽しみましょう。引き続きよろしくお願いいたします。

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