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- 一日一句 奈良暮らしより (https://hodaka.org)
- 百人一首 談話室 (http://100.kuri3.net)
最新記事一覧
発行日時 | パイプ名 | 見出し |
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2019/2/19 19:52 |
一日一句 奈良暮らしより
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雨水
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暦では雨水とか、おりしも今日は雨。 雨に打たれたか、庭の白梅が木の根元に散り始めた。 |
2019/2/18 17:47 |
一日一句 奈良暮らしより
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歩幅
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暖かい日差しにチューリップの苗が萌えだした。 春に大々的にチューリップフェアをする公園で一気に春が進んだようだ。 |
2019/2/17 21:01 |
一日一句 奈良暮らしより
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春の大雪
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全没。 結社の月例句会にデビューした。 互選ではまあまあの票をいただいたのであるが、主宰選ではどれも選ばれなかった。 |
2019/2/16 19:12 |
一日一句 奈良暮らしより
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ジリ貧
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週休二日の時代というのに土曜日でも律儀に郵便が届く。 検討はされているのだろうが、そろそろ土曜日の郵便配達をやめたらどうだろう。 |
2019/2/15 19:04 |
一日一句 奈良暮らしより
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シルクロード東端の国
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10羽くらいが大和川をぐるぐる周りながら遡上していく。 こちらはまだ真冬の格好なので、もう来たのかと正直驚きを禁じ得ない。 |
2017/4/17 6:00 |
百人一首 談話室
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100番 締めは順徳院 「百々しきや」
![]() ![]() さて2015.4.2天智帝の1番歌から始まった百人一首「談話室」、丁度2年を経て100番歌に到達です。大トリは後鳥羽院の子で承久の乱で後鳥羽院に連座して佐渡の地で果てた順徳院。高らかにフィナーレを飾っていただきましょう。 智ではじめ徳でおさめる小倉山(江戸川柳) 100.ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり 訳詩: 大宮の古い軒端は荒れはてて 作者:順徳院 1197-1242 46才 第八四代天皇 後鳥羽天皇の第三皇子 ①順徳院 1197-1242 46才 →公武合体路線が採られておれば違った日本史を作りあげていた人物かも。 ・後鳥羽院の第三皇子 母は藤原範季の娘重子 母の母は平教子(清盛の姪) ・後鳥羽院は先ず土御門帝(源通親の娘腹)に譲位したが源通親が亡くなると取分け可愛がっていた第三皇子を順徳帝@14として帝位につけた1210。 ・91九条良経の娘立子を中宮とし息子懐成親王(仲恭天皇)を儲ける。 ・1221 承久の乱 上皇側はなすすべなく幕府軍に敗れる 【佐渡島】 順徳院は真野(佐渡市)黒木御所で21年を過し1242 46才で亡くなる。 ②歌人としての順徳院 ・続後撰集(為家撰)以下勅撰集に159首 ・佐渡に配流された時の歌 ・佐渡でも歌作に励み定家とは音信を続け(定家も応じた)ている。 八雲御抄 ・後鳥羽帝が亡くなった時1239の弔歌 ③100番歌 ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり ・ももしき(百磯城)=多くの石で築いた城、転じて宮中 ・しのぶ 忍ぶ草(ウラシダ) ジメジメした日陰に茂る雑草 ・聖代を偲び王道の衰微を慨嘆する歌 1番(秋の田の)・2番(春過ぎて) 希望に満ちたニッポン ・百人一首の締め括りに百の数字が入っているのは分かり易くていいのではないかとも思うが、それにしても100番歌はあまりにも侘しい。 ④源氏物語との関連 ・荒れ屋敷の象徴として忍ぶ草は定番 2源氏が須磨に去って荒れた花散里邸、この歌を見て源氏は修繕を手配する。 3源氏が何年も訪れず荒廃した末摘花邸で古今集の歌が引かれている。 フィナーレと言うにはあまりにも侘しい終わり方であるが当時の現実であり致し方あるまい。それにしても大化の改新(天智・持統帝)に始まり600年を経て承久の乱(後鳥羽院・順徳院)で終わる百人一首、これ以上の歴史教材はないのではないか。 ************************************ これで100番までの投稿を終わります。長らくのご支援ありがとうございました。後は完読記念旅行に向けて余韻を楽しみましょう。引き続きよろしくお願いいたします。 |
2017/4/10 6:00 |
百人一首 談話室
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99番 承久の乱で隠岐へ 後鳥羽院 人もをし人もうらめし
![]() ![]() さてラス前、当然大物の登場です。天智・持統帝から始まった天皇&藤原氏による治世も承久の乱を以て終りをつげ、武家筆頭による政権へと移行する(中世の始まり)。その立役者が後鳥羽院。「和歌を通じて日本の文化的統合を狙った意欲的な上皇」(五味文彦)でもありました。大物ぶりを拝見しましょう。 99.人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は 訳詩: 詮のないことだが世を思う 作者:後鳥羽院 1180-1239 60才 第八二代天皇 高倉天皇の第四皇子 ①後鳥羽院 父高倉帝(祖父後白河帝) 母藤原信隆の娘殖子 以下97番定家の時同様アラカルト風に感じたことをピックアップします。 〇三種の神器なき即位 〇1198 19才で土御門帝に譲位(自らの意志で)してから和歌に没頭するようになる。 〇新古今集撰進が終わった1205ころから和歌への情熱は徐々に冷め他の遊びに方向転換。 〇吉野御幸三十回以上、水無瀬離宮(豪壮無比の避暑別荘)往訪数知れず。 〇1210頃からか鎌倉幕府への不満が募ってくる。荘園経営やら相続を巡り幕府側と対立、幕府も力で押さえつけ譲らない。段々と肩身の狭い思いが昂じてくる。1219実朝暗殺さる。 〇1221 承久の乱 まさか即刻隠岐に流されるとは思わなかったのか。 結果的に承久の乱のお陰で今まで京・鎌倉の二重政権だったのが鎌倉幕府専権政治体制(天皇の人事も含め)へと固まった。日本史にとって大きな出来事であったことは間違いなかろう。 〇隠岐での後鳥羽院 結局隠岐で19年を過し、1239 60才で崩御。 ②歌人としての後鳥羽院 ・新古今集以下勅撰集に256首 御集「後鳥羽院御集」 歌論書「後鳥羽院口伝」 ・後鳥羽院秀歌 田辺聖子撰 ・隠岐での後鳥羽院 承久の乱後97定家は後鳥羽院との音信を断ったが98家隆は文通を続けた。 ③99番歌 人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は ・1212 五人百首中の述懐歌 ・人もをし人もうらめし ・丸谷才一は古注(「百首要解」江戸の国学者岡本況斎)に基き99番歌は源氏物語須磨に書かれた光源氏の気持ちを背景にしていると説く。 源氏物語 須磨8 須磨に落ちる源氏、東宮に別れを言いに行く場面。 長くてとりとめなくなってしまいスミマセン。 |
2017/4/3 6:00 |
百人一首 談話室
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98番 定家と並ぶ双璧 家隆 風そよぐ
![]() ![]() いよいよラストスリー(上がり3ホール)となりました。定家が明月記に「1天智天皇以来、98家隆・94雅経に及ぶ」と書いた家隆。百人一首撰定時(1235)定家と並び双璧だった家隆(家隆が4才上)。百人一首の配列からもその歌人としての重要性が伝わってきます。 1番 天智天皇 2番 持統天皇 Vs 99番 後鳥羽天皇 100番 順徳天皇 98.風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける 訳詩: 楢の葉に風がそよげば 作者:従二位家隆 藤原家隆 1158-1237 80才 藤原光隆の子 壬生二品 ①藤原家隆 ・父は正二位権中納言藤原光隆 ・父も正二位、家隆も晩年ながら従二位に上がってる。まあそこそこの権門。 ・最初寂蓮(藤原定長)の娘と結婚、寂蓮の養子になった(との説あり)。 (後、寂蓮の娘とは離れたのか、光隆の子雅隆の娘(即ち姪)を妻室にしている) ・九条家歌壇、後鳥羽院歌壇で活躍後、病を得て79才で出家(出家したのは四天王寺) 契りあれば難波の里にやどりきて浪の入日を拝みつるかな(辞世7首の一つ) ②歌人としての家隆 ・若くして俊成に師事したが、歌人として頭角を現したのは40才ころから。晩生である。 「家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。歌になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀歌ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ」(後鳥羽院口伝) ・定家との関係 ・新古今集撰者の一人(源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮) ・若かりしころの初々しい歌 ・後鳥羽院歌壇の中心人物として活躍。後鳥羽院とは親交を結ぶ。 われこそは新島守よ隠岐の海のあらき波かぜ心してふけ →政治的に距離を置かざるを得なかった定家と比較的自由だった家隆の違いだろうか。 ・家隆の代表歌とされる歌 ・多作家として知られる。晩年まで歌を詠み続け六万首も詠んだ。 ③98番歌 風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける 屏風歌 当代を代表する歌人 月毎に3首、計36首 →1229年に詠まれたということは百人一首中一番出来立てで新しい歌ではなかろうか。 ・風そよぐ 風がそよそよと音をさせて吹く ・ならの小川 上賀茂神社の御手洗川 上賀茂神社は災難を除く厄除けの神さま ・みそぎ 夏越の祓い(六月祓い) ・本歌とされる二首 ・夏のしるしなりけり ・夏の歌は百人一首に4首 ④源氏物語との関連 ・葵祭り(賀茂祭) パレードは見物人で大混雑。葵の上vs六条御息所 車争いが起こる。 六条御息所の絶唱 (さわやかな98番歌なのに重っ苦しい引用でごめんなさい。藤原兼輔末裔の家隆卿、紫式部も遠い血筋であるには違いないでしょう。お許しを) |
2017/3/27 6:00 |
百人一首 談話室
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97番 百人一首の産みの親 藤原定家 来ぬ人を
![]() ![]() さて、いよいよ百人一首の産みの親(&源氏物語の育ての親)定家卿のお出ましであります。この談話室、百人一首を1番から人物像を中心に語り合って来たわけですが、それはとりもなおさず撰者の定家について論議してきたとも言えましょう。談話室の検索欄に「定家」と入れて検索すると殆ど全ての歌が検索されて出てきます。そんな定家卿です。改めて敬意を込めて考えてみましょう。 【参照】百人一首 談話室 ウオームアップ 97.来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ 訳詩: 来ぬ人をまつ身の焦がれ 松帆の浦の 作者:権中納言定家 藤原定家 1162-1241 80才 俊成の男 正二位権中納言 ①藤原定家 以下アラカルト風に気づいた点を書いてみます。 〇定家の健康状態 〇定家の性格、行状 〇後鳥羽院との蜜月~確執 →気まぐれ和歌愛好家の後鳥羽院と和歌の求道者定家。合うはずがない。 〇定家の結婚 〇定家の官位アップへの執心 〇定家以降の御子左家 ②歌人としての定家(もう今までに語り尽くされてますが) ・勅撰集入集 465首 私撰集に秀歌撰・定家八代抄 私家集に拾遺愚草 ・晩年(主として出家後か)は源氏物語他古典の書写、編纂、注釈(古典考証) ・定家の歌から 1220歌合欠席時院に差し出した歌。後鳥羽院激怒 勅勘・閉門 有名歌を少し 小倉山荘での歌 ・定家の近代秀歌より ・後鳥羽院の定家評(後鳥羽院口伝) ③97番歌 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ ・本歌 万葉集 笠金村の長歌 【藻塩】(広辞苑) ・男の訪れを待つ切ない女心を詠んだ歌 ・総じてこの歌の評価は高い ・松帆の浦 淡路島の北端 島の始めの淡路島 対岸は須磨・明石 ④源氏物語との関連 須磨の家居の様子 源氏→藤壷 松島のあまの苫屋もいかならむ須磨の浦人しほたるるころ 源氏→朧月夜 こりずまの浦のみるめのゆかしきを塩焼くあまやいかが思はん 紫の上返し 浦人のしほくむ袖にくらべみよ波路へだつる夜の衣を →97番歌は須磨・明石からの源氏の帰りを待つ女君たちの心を定家が代弁したものではないでしょうか。 松風有情さんの百人一首絵、97番藤原定家、画き納めだろうとのこと。 |
2017/3/20 6:00 |
百人一首 談話室
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96番 承久の乱後の権門 西園寺公経 花さそふ
![]() ![]() 今につながる西園寺家の始祖とされる公経。承久の乱またぎで一歩抜け出し後鳥羽院失脚後、京朝廷での第一人者となる。豪奢を極めた西園寺(今の金閣寺の所)を建て権勢を誇った公経、どんな人だったのでしょう。 91九条家の 良経 が 1169生まれ これって何なんでしょう。ややこしくてゴチャゴチャになりますねぇ。。 96.花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり 訳詩: 花を誘って庭一面に白く散らす無情の嵐よ 作者:入道前太政大臣 藤原公経 1171-1244 74才 従一位太政大臣 西園寺家の始祖 ①西園寺公経 ・閑院流は三条家・西園寺家・徳大寺家に分れ五摂家に次ぐ家格の公家となっていく。 ・公経の姻戚閨閥関係、これがすごい。 公経の娘倫子は91九条良経の子道家の妻となり頼経(鎌倉4代将軍)を生む。 ・鎌倉幕府との結びつき ・西園寺の名の由来は北山(今の金閣寺の所)に豪勢な西園寺を建立したことによる。 ・公経の人物評価は毀誉褒貶相半ば。 ②歌人としての西園寺公経 ・1200以降の数々の歌合に出詠 ・定家との結びつき、、、すごい結びつき! その定家が「明月記」の中で公経を「大相一人の任意、福原の平禅門に超過す」と評している。清盛を凌ぐ勢い、公経の権勢ぶりがよく分かる。 ・公経の歌から、 ・公経の歌人としての評価は高くなく、新勅撰集に30首を撰入したのも定家の個人的理由とされる。百人一首への撰入も定家との特別関係からであろう。 ③96番歌 花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり ・ふりゆく 降りゆく&古りゆく ・本歌 ・「花さそふ嵐」の先行歌 ・定家の先行歌 ・逆の発想の歌(桜の花よ沢山散って老いの道を隠して欲しい) ・90番台は91冬に近い秋、94秋、98が夏。一首は春の歌が欲しい。それも桜の歌。 桜の歌は百人一首に6首(9花のいろは・33久方の・61いにしへの・66もろともに・73高砂の・96花さそう)。 ④源氏物語との関連 96番歌の歌意としては若菜下源氏が老いゆく自分を嘆き、若き柏木の過ちをいびる場面での源氏の気持ちかとも思うが、若菜下の場面は初春前の師走。歎きの度合いもちょっと違う気がします。 |